山木礼子『太陽の横』短歌研究社,2021
「キッチン」の、うつくしくて怖いもの。光る包丁だろうか、揺らぐ炎だろうか、滾る湯だろうか。どれもこれもが抜群にうつくしく、危険で、とても怖いものたち。
受け容れつづけるしかないからこそ、美しいものに触れたり、それを教えたりするのは、案外やさしいことなのかもしれず。
けれど、いっぽうで「怖さ」を教えるのって、すごく難しいのではないか、と思うのです。
こわい、という感情は、本来は超現実的なものです。恐怖は、こちらの世界とあちらがわの世界との境界があいまいになるからこそ、感じ得るもの。
なので、「怖さ」を教えるためには、じっさいに相手の領分に踏み込んで、こころを煽ったり、その実存を揺さぶったりする必要がある。
このうたの語り手は、それを「もう教へたよ」と、かるく優しく諭します。
語りかける対象へ恐怖心を植え付けたことに対する自覚をもっているわけです。とても勇敢で、こわい。
そのことをうたにしている、ということも、そしてこのうたじたいが、その美しさゆえにぞっとさせるようなものであることも。
わたし(たち)は、何もかもをまだぜんぜん知らなくって、だからこそ、何か新しい感応に出逢えたり、それを受け止められるようになると、ぐんと「世界」は広がって、自分自身も拡張されるような感覚に陥る。それですこし大胆になったり、臆病になったりもする。
にんげんを数十年やっていてもそう感じるのだから、人生をはじめたばかりのひとがひとつずつ掴んで、煌めきを食み、育んでゆくのは、どんなにか眩しく、どんなにか恐ろしい心地がするんだろうと思ったりする。残念ながら、わたしはそれを忘れてしまった。何回にんげんをやっても、この最初期の煌めきを食む瞬間を、言葉に焼き付けることはできないんだろう。育児がひとつのテーマとして在るこの歌集を読んで、何故だかそんなことも思いました。