松川洋子『天彦』(短歌研究社、2004年)
ときどき真っ赤な月がかかっていてぎょっとすることがあるが、これもそういう赤い月である。それも満月。それを「赤銅の銅鑼」に見立てたところにたのしみがある。月のおもてはざらざらとして、またその模様からも、たしかに銅鑼(あれは青銅、十円玉のような感じ)のように見える。それが赤いのだからまこと赤銅の銅鑼。桴持って叩きに行きたくなってくる。
赤銅は「しゃくどう」と読む。うたは、げんに「どおーんと打ちて」であるから、叩いて音を鳴らしている。やっぱり銅鑼の音がするのだろうか。赤いあやしい月に、なかなかふさうような気がする。「駆けくだりくる」とあるのでピンポンダッシュの要領で、鳴らしていそぎもどる感じである。打ってはいけないものを打っているのだろう。まあ、満月をたたいていいわけないのだが……。それに満月の夜は明るい。だれかれに見つかりやすいのだ。
「赤銅の銅鑼」と見立てるにとどまらず、その世界のなかで、それを打ちにいったところでうたになったし、さらにふみこんで「どおーん」「駆けくだりくる」まで描いたところに臨場感がある。人間の眼による絵画的遠近感といったらよいか。実際の月は、とてもとても遠い。
「銅鑼とし」の「し」は強意の副助詞。「と」は認識の内容をしめす格助詞であるから、「赤銅の銅鑼として架かっている満月を……」という感じか(「し」がなければ、「赤銅の銅鑼って感じで架かっている満月を……」くらいかなあ)。この強い言い切りにも、作品世界への巧みな誘導がある。