寝ね際のわれの気散じ冬眠の亀の寝息に思ひは及ぶ

春日真木子『何の扉か』(角川文化振興財団、2018年)

 

おおかたの文章はまず手書きして、それからネットカフェに一晩こもって仕上げている。リクライニングの椅子をたおして仮の寝床とし、眠らんとして、するとなかなか眠れないことがある。あれこれ場面がうかび、つぎつぎに考えがつらなり、一時間二時間経つということさえある。

 

「寝ね際」は「いねぎは」、寝るきわのことである。気が散って、とりとめなくいろいろ考えてしまう。このうたの場合は、「冬眠の亀の寝息」におもいがおよぶ。「寝ね際」から「冬眠」への連絡はいかにもその種の連想で、しかし「寝息」という仔細なところまではいってしまうと、なかなか抜け出せず、いよいよ眼冴えてくる。あるいはふだんならば考えもしないことにおもいいたり、そのことで心を痛めたり悩んだりするのもこの時間である。眠ることはつくづく難しい。

 

さいわいというべきか、このうたはそう深刻なところへはいかず、しかし意外なところにたどりついたようだ。「の」の重畳と「散じ」の連用形がつぎつぎと考えのつながっていくさまを表してもいよう。どこかで夢にかたあし差し入れてしまうような「寝ね際」の時間を、(たとえば「散りて」ではなく)「散じ」のきえやすい響きが印象づけている。

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