大野英子『甘藍の扉』(柊書房、2019年)
入り汐ということばは干汐、満ち汐どちらのこともさすが、この場合は「浜まで歩く」わたしが「すれ違」うのだから、満ち汐である。(「入り汐」は、月の「入」りに伴うとおもえば干汐、江に「入」ってくるとおもえば満ち汐、ということのようだ。)
川面にはつか波立つくらいで音もなく、川をのぼってゆく海のみず。その川の流れに沿って、わたしのほうは浜へ向かって歩いていく。たがいにしずか、かかわりなくすれ違う。ただそれだけのうたである。
汐には潮という字もあって、朝、夕それぞれの満ち干を区別してあてたりもする。このうたでも、字にならって、たとえば夕どきの場面を想像してみる。夜の時間へさしかかりゆく時間の流れと、汐の流れとがあいまってわたしにはたらきかける。そこに「さからう」ほどの意識はないにしても、「すれ違」うというからには〈逆〉ということが意識されていよう。ここにささやかにも心のうごきがあらわれている。
佐太郎は『帰潮』(これは干潮)に
秋分の日の電車にて床にさす光もともに運ばれて行く
の一首があるが、掲出のうたにも「すれ違」いつつ、そこには流れゆく〈汐〉と〈わたし〉という「ともに」の気分がただよう。かかわりあうことなく親しみあう、そういう心のひとときのにじむ一首だ。「入り汐とわたしと」の「と」には、「光もともに」の「も」とかようところがある。