五島諭『緑の祠』(書肆侃侃房、2013年)
「銀だこ」はたこ焼きの店。「大井」は(「大穴が出る」のだから)大井競馬場だろう。うたはふたつのできごとを上の句・下の句に配置して、しかし下の句のほうが音がすくないために、とつぜんスピーディーに感じられる。〈こと〉の述べ方の均等(文と文)と、〈音〉の不釣り合いによるものだろう。
ほかにも、たとえば「雨の大井」という定型句がすでに《はやい》。それから「銀だこ」と「たこ焼き」に「たこ」の反復があり、それが下の句の「大井」「大穴」の「大」の反復へなめらかにつながっていき、二回きた、というたのしさがある。と同時に、二回目は〈知っている〉ので《はやい》。
そもそも「大穴が出る」というのがたのしい。興奮する。「久々に」銀だこのたこ焼きを買ってみて、そこにほんのり高揚感があるところに、かさねて「大穴が出る」ことによって、統合されたたかまりになっていく。その、気持ちが指数関数的にもりあがるところも、やはり《はやい》なあとおもう。
下の句の三・四・五・二の音の展開は、阿波野巧也さんだったかな、が〈クライマックス型〉というようなことをおっしゃっていた。だんだんに盛りあがって、最後にぱん、とはじけるような、なにか管弦楽曲のおわりのような余韻をおぼえる。この音の分配にも《はやい》がある。
久々に/銀だこのたこ/焼きを買う
の句跨りは、そうおもってみるといくぶんおそい。
さらに語のイメージを言えば、「たこ焼き」の形状は下の句で「穴」へつながっていき、あるいは大井・大穴の「井」と「穴」はいくらもちかいことばである。一方で、「銀だこでたこ焼きを買う」にはなっていないところに、「大井で」へのパスがある。
ふたつのできごとはかかわりなく並んでいるが、この反復、対句をみていくなかで、久々に銀だこ買ったのが大穴につながった、ようにも見えてくる。それとも雨だから?