祈りつつ切手を貼るよ 性と心が癒着するしかない身を生きて

笠木拓『はるかカーテンコールまで』港の人,2019

 

喝采。余韻。カーテンコール、というのは不思議な空間です。

ついさっきまで緞帳カーテンの向こうがわで、それぞれの役を演じていたひとたちが、ふいにひとりの人間の表情を取り戻し、物語の〈私〉とその肉体の語り手である「わたし」とを行ったり来たりしながら、その両方の主体を背負って歓声を浴びている。

歌を鑑賞しているとき、ときおり、これと似たような感覚をおぼえることがある。というのはつまり、はざまの煌めきを優しく、したたかに思い出されることがある。この歌も、然り。

 

初句から二句め、「祈りつつ切手を貼るよ」。そういえば切手を貼る、というのは、想いを託す、ということを体現する、数少ない現実の行動だと気づかされるのですが、

聖餅を神父様からいただく様子は、切手を舌にのせるときのそれに似ているかもしれません。

初句の「祈りつつ」がここでふしぎと、そして深く呼応します。

 

この語り手は何を祈っているのか、作中主体はそこに何を記したのか、つぶさに語りはしません。

三句目以降がその内容をうけていると考えて読みを進めると、「性と心」が「癒着するしかない」という表現に突き当たって、わたしたちはハッとします。そしてまた、ほっとする、を味わいます。

そこで「癒着」という言葉で表現される、粘っこさ、苦しさ、痛さ、みにくさを想像する。目では「癒す」「着く」という、安心感を与えるはずの字面を追いながら。

 

そのとき、当たり前のように思っていた「何か」がぐらりと揺らぐのを感じます。

わたしたちの「現実」だという顔をして幅を利かせているものの正体を、立ち止まって考えさせてくれる。そして歌は短い分、そのことをくりかえし唱え、何度もなんども考えさせることができる。

一瞬でもそのことを疑わせてくれるような言葉の、強さも脆さも信じている、ということを、この語り手は、わたしたちに宛てた「祈り」として届けようとしているかのようです。

 

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