平岡直子「お母さん、ステルス戦闘機」『文藝』2022年春季号,2022
『文藝』2022年春季号は「母の娘」という特集が組まれていて、伊藤比呂美氏と金原ひとみ氏の対談や、宇佐美りん氏の芥川賞受賞後第一作などが掲載されています。
そのなかで唯一、歌人として招かれているのが、わたしたちの平岡直子氏です。
わたしには記憶がない 腕時計をみるように月を見ている夜よ
Ctrl Zの詩情 生きる前に選びたかったとは思わない
「記憶がない」といわれると、本来「ある」べき光景が欠けている、という状態を差し出される。
わたしたちはこのとき、何かが決定的に「ない」ということを承知します。
腕時計を「みる」のと月を「見る」のと、明確に区別されているはずのそれらの行為を、語り手は意味の「ない」もののように言い表します。
「Ctrl Z」、これは何かあったはずのものを取り消す、生み出した何かをなかったことにするためのショートカットキー。
これらの連なりに、ただ「ない」のではなく、もともとはあるはずのもの、つまるところ「ない」と言うことでのみその非在を証明することのできる「何か」の気配を感じます。
「自販機」でじぶんの好きな飲み物を選択する、という場面においても、その「何か」はやってくる。目には見えないけれど、どこかには潜んでいて、あるときふっと蘇る。そのとき、語り手は発話する。
「お母さん、ステルス戦闘機を感じたい」。
その「何か」がじつは「お母さん」の視線と通底することに、うすうす気づかせながら、語り手は読み手へ「非在」を指示しつづけるのです。
そのうち、「お母さん」と「ステルス戦闘機」が、まるで近親の関係にあるように見えてくるのだからおそろしい。