パンシェへの流れを見せる先生の胸の廃墟にうつる夕空

野口あや子『くびすじの欠片』短歌研究社,2009

 

「パンシェ」は、バレエでもっとも美しいと評される「アラベスク」の形から、ゆっくりと上半身を下し、後ろの脚を高く、最終的に床と垂直になるまで上げてゆく動きのこと。

アラベスク

パンシェ

 

バレエの先生は、そのほとんどが現役のバレリーナを引退したひとたち。

肉体の盛り(?)を厳しい自己管理とともに過ごしたひとたちは、上半身、とくに鎖骨や肋骨のあたりは、肉の付き方を知らない部位であるかのようにそこに在る。

 

「パンシェへの流れを見せる先生」の「胸の廃墟」と言われて思い浮かべるのが、そういった先生のやせぎすの胸元でした。

この歌の時間軸である夕刻は、一日のうちでもっとも影の濃い時間。かがむことで、影になっていた「先生」の肋骨や鎖骨が浮きだっているのがわかる。かつて確かにそこにあった建築物。その隆盛を、昏れてゆく「夕空」が彩るのです。

 

「日暮れ」や「夕焼け」ではなく、「空」という字が加わることで、からっぽの、「ぽっかり」感が表される。そしてまた、どこか広々とした様子も思い浮かびます。

ゆっくりと上体を下ろしてゆく「先生」。すらりと伸びた長い脚は空のほうへと近づいてゆく。

 

十七歳になるまで、というのは、短歌と出逢ってしまうまで、わたしの夢はバレリーナになることでした。

北京オリンピックでのフィギュアのドーピング問題を目にしたとき、バレエを習っていた頃の、あのずっとそばにあった身体の痛み、汗、きしむ胃、トウ・シューズの血だらけの足、といったものと一緒に、

ロシアのワガノワ・バレエ学校の生徒に密着したドキュメンタリー……昼食の時間になっても食堂でお水だけを口に含み、「夜はお肉を一口だけ食べます」とはにかむ17歳の少女、彼女がレッスン中にふらふらと舞い、見かねた先生が「お茶を飲んできた?」「朝にお茶を飲んでからレッスンに来なさいね」と諭すシーン、といったものが一気に蘇ったのでした。

 

(バレエには二次性徴が始まってしまうと、こなすのに厳しいステップがある、と教えられていた。回転などがその一例だ。肉体に凹凸のなく、空気抵抗の少ないころに感覚を磨く。フィギュアにはもっと明確に、18歳になるとできない技がある、と知った。そのからだに、ありとあらゆるものを背負わせて、まるで使い捨てるかのように。そのことが、どうして今、こんなに胸の痛むんだろう。)

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