沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ

斎藤茂吉『小園』

 

なぜ〈私〉は沈黙しているのか。何を押し黙っているのか。

「われに見よとぞ」なので、おそらく実際の光景よりも、〈私〉にその光景は強烈にうつっている。

たくさんの葡萄、そこに降り注ぐ雨、といった光景が、こっちを見よ、とばかりに〈私〉に語りかける。いささか強迫観念的に、〈私〉から言葉を奪いながら。

 

しかもこの葡萄は、黒い。紫やきみどりではなく。

ひとつひとつの実がつややかに肥り、そこに「雨」がふりそそぐ。「百房」という数えきれないほどの大量の、旬の葡萄。

その黒い実は雨に濡らされ、弾けんばかりに光っている。

 

何も言えない〈私〉は、現実に降る雨を通して、何か別の世界を思い浮かべている。

〈私〉から言葉を剥奪し、黒い「葡萄」に雨を降らせているものは何か。考えろ、とばかりに、この歌の雨はふりつづける。

そのひとに見えている光景も、わたしたちに提示する景そのものも、とてつもなくグロテスクに光りながら。

 

***

 

葡萄の実るころ。この歌の詠まれたのは、戦後まもないその時期。弾けんばかり・・・・・・の「黒き葡萄」、「ふりそそぐ」という表現、そして見たこともなかったはずの戦争の兵器を目の当たりにしている今、考える。

茂吉の歌は、何もかもが地続きであるからこそ、こちらがわがぞっとさせられるということを再認識する。

 

かれが戦争讃歌を量産していたということは言わずもがな、それを踏まえたうえで今、わたしたちは彼の「沈黙」を通して考える。

考えなければ、という気持ちだけが先行する。いまのわたしはあまりに無知で、言葉に詰まる。

 

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