高き山より突き落とされしその時に吾をささへしは何だつたのか

今井聡『茶色い』(六花書林、2022年)

 

集中にあっては、めずらしく喩的な一首。ゆえに「高き山より突き落とされし」まで読んで、すなおに、高い山から突き落とされたんだな、とおもい、その光景を想像しながら、ことの大きさに比して叙述の素朴であるところに、歌風ということをおもった。

 

ところがそのときイメージしたのは、「高き山」というよりも崖のようなところから突き落とされる姿で、じっさいには「高き山」というのは、すでに喩であったのだ。山頂から突き落とされたのであれば、それは「高」くなくとも、じゅうぶん、深刻である。

 

なにごとかがあって、それをふりかえりながら「高き山より突き落とされし」と捉える。そのとき、しかし、いまこうしてわれがあるのだから、なにかがわれを「ささへ」たのである。それがなんだったか。

 

たとえば「高き山より突き落とされ」て、なにかがわたしを摑んだとか、どこかにひっかかったとか、あるいは落ちたところがいくぶん柔らかく、衝撃すくなかったとか、そういうことをおもってみて、「ささへ」るという感じからは遠い。だから一首全体はやはりあるものをこの人のうちに包みこみながら、まだ語られないなにかをつよく印象づける。

 

「何だつたのか」、まだわからない、ずっとわからないかもしれない、その感触の、であるのに生々しくつたってくる一首である。なにか、もっとおおいなるもののはたらきをおもった。

 

なお三首からなる連作の題は「爲人所推墮」(「所」も旧字体)、妙法蓮華経の一節である。以下にその部分を引用する(東方書院『法華経』、巻第七・観世音菩薩普門品第二十五、p.301、引用にあたり旧字体は新字体にあらためた)。

 

あるひしゆみねりて、ひとおとされんにも

彼観音かのくわんおんちからねんずれば、ごとくにしてくうぢうせん

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