戰爭のたびに砂鐵をしたたらす暗き乳房のために禱るも

塚本邦雄『水葬物語』

 

あまりにも有名な、今さらに読みを提示するには恥ずかしいくらいの歌ですが…こういった作品を通して「考える」ことしか、わたしにはできないと思ったのです。

 

***

 

徴兵令のために、家族や恋人、友人たちと別れを告げる様子が、SNS上で拡散されていた。それが実はフェイク動画であるとも、その「フェイク動画だ」と指摘する声がフェイクであるとも、両方の言い分を目にした。

この歌に対する読みは、「乳房」が女性の換喩であり、その乳房の「したたらす」「砂鉄」が涙の暗喩であると捉え、愛する人を戦争にとられた女たちの嘆き、とりわけ、子を喪った母親の嘆きである、というようなものを見かけた。塚本が実母を早くに亡くしていることと掛け合わせた、アクロバティックな解釈もあるようだ。

 

「戰爭のたびに砂鐵をしたたらす」まで読んだとき、果たして、砂鉄はしたたるものなのだろうか、と、わたしたちは違和感を抱く。磁石に毛羽だって群がる、黒いごわごわ。文字通り「滴る」は、水などがしずくになって垂れ落ちること。あるいは、美しさや鮮やかさがあふれるばかりに満ちている様子のこと。

前回挙げた茂吉の「ふりそそぐ」とは別の水性の勢いと時間軸を伴って、ぽたぽたと地上へと下垂れる「砂鉄」。「暗き乳房の」まで目を通して、その「したたらす」という表現が、「乳房」というモチーフに支えられていることに気づく。現実に乳房がしたたらすのは母乳であり、それは赤子を育むためにこそ用いられる体液だ。この歌のなかでは、それが「砂鉄」とすり替わっている。しかも、「戦争のたびに」。

わたしはダリの絵のような光景を思い浮かべる。空に大きな乳房が浮かび、そこから真っ黒な砂鉄が、磁力から解かれたときのように滴り落ちてくる。まるで、爆弾の落ちるように。ひとを殺めるための爆弾、弾丸、そういったものの表象である「砂鉄」と、本来はにんげんを生かすための母乳とが、この歌の中では結合している。生と死の結合。茂吉の、生から死へと「地続き」の目線とは別のたましいのまなざしが、ここに在る。

 

すると、とたんに最後の「も」が難しい。さきに挙げた「女の嘆き」読みは、この「も」に引っ張られた解釈なんだろう。

〈私〉は何を祈っているのか。祈っているけれど、何なのか。茂吉の「沈黙」とはまた別の位相で、この〈私〉は言葉を飲み込み、黙りこむ。静かにしずかに、こころのうちで祈りながら。

 


では、祈ることが無力であるなら、祈ることは無意味なのか、私たちは祈ることをやめてよいのか。しかし、いま、まさに死んでゆく者に対して、その手を握ることさえ叶わないとき、あるいは、すでに死者となった者たち、そのとりかえしのつかなさに対して、私たちになお、できることがあるとすれば、それは、祈ることではないのだろうか。だとすれば、小説とはまさに祈りなのだ、死者のための。人が死んでなお、その死者のために祈ることに「救い」の意味があるのだとしたら、小説が書かれ、読まれることの意味もまた、そのようなものではないのか。薬も水も一片のパンも、もはや何の力にもならない、餓死せんとする子どもの、もし、その傍らにいることができたなら、私たちはその手をとって、決して孤独のうちに逝かせることはないだろう。あるいは、自爆に赴こうとする青年が目の前にいたら、身を挺して彼の行く手を遮るだろう。だが、私たちはそこにいない。彼のために祈ること、それが私たちにできるすべてである。だから、小説は、そこにいない者たち、いなかった者たちによって書かれるのだ。もはや私たちには祈ることしかできないそれらの者たちのために、彼らに捧げる祈りとして。

岡真理『アラブ、祈りとしての文学』みすず書房

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