炎であればもつとさびしい桜から鳥がとびたつ花穂をゆらして

藪内亮輔『海蛇と珊瑚』角川文化振興財団,2018

 

歌集のタイトルである『海蛇と珊瑚』、そして冒頭の連作のタイトルである「花と雨」をはじめとして、言葉と言葉を並立させている形が、至る所に耿々とひかっています。

 

愛はつね逢ひをさびしくすることの雨の純銀に濡れてゐる花

 

「愛」のさびしさが「雨」を「純銀」に光らせている。「花」は名前を奪われることで、この世界のありとあらゆる「花」として、その「雨」に濡らされる。

 

それでゐてわたしはあなたをしなせるよ桜は落ちるときが炎だ
絶望があかるさを産み落とすまでわれ海蛇となり珊瑚咬む

 

海蛇と珊瑚、絶望とあかるさ、炎と桜。例えば「海蛇」と「珊瑚」は海に棲む生物ですが、「われ」が成り替わるのが「海蛇」で、「珊瑚」はその「われ」に咬まれるものとして詠われているので、同じ穴の狢、というわけではなさそうです。かといってシュルレアリスムのデペイズマン、アヴァンギャルドな二項対立や二物衝突、というほど乖離している関係性ではありません。

これらは、もともとは異なる存在でありながら、歌の中では真に表裏一体のものとして掬いあげられているようです。

 

きょう取り上げた歌では、語り手が「炎であれば」と語り始めたとたん、咲き乱れている桜花が単なる〈美しさ〉だけではない、ある種の〈凄まじさ〉を帯びた景色として呼び起こされて、決して言葉のままに安住させない。「鳥」がとびたつときにはらりと散る花びらが、つぎの瞬間には火の粉のようにも見えてくる。

その手つきはどこか覚束なくて、けれど言い切りの形が多用されていることからも、鋭い直感に守られているようにも見えます。

 

この「覚束なさ」に似た感覚は、桜を炎に見立てる神の御業のようなものから、およそかけ離れた「さびしい」という、にんげんらしいパーソナルな感情の吐露に対するわたしたち読み手の戸惑いであって、レトリックの問題ではありません。

そしてそれはふいに、歌の中の「花穂」と同じタイミングでゆれる。

 

こちらがわの世界が揺さぶりをかけられるような、このふしぎな歌の言葉との「一心同体」感を、愉快な錯覚として楽しんでみたいと思うのです。

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