西巻真『ダスビダーニャ』(明眸社、2021年)
初句切れのうた。
孤独なり//自宅で幾度/倒れても/だれもだれも/起こしてはくれず
と下の句を6・8で読んだ。「起こしては」がおもたく立ち上がりながら、おのずから「くれず」が強調されるかたちである。
この「孤独なり」という言い切りがあまりにもそのままでおどろくのだが、さらにそこにつづく場面が、これもおなじくらいそのままで、かえってここにありのままの現実というものが漏れでるようで、つい目をそらしたくなる。
〈孤独〉を感じるこころとその〈場面〉をえがいて、そこにズレや対比をつくることで、〈孤独〉の感じをたちあげていく、というやり方が一方にはありながら、ここではそのいずれともちがったところで一首がなりたっている。
あるいは自宅でなければ、起こしてくれる「だれか」を想定できるかもしれないが、ここは自宅である。自宅というのは隠喩ととってもいいだろう。そして自分が倒れるのだから、起こしてくれるものとして「みずから」を想定することもまたできない。
ここにふたえの苦しみがある。みずからをたのむことができず、自分以外の「だれか」をたよることもまたできない。であるから、「だれか」を想定するからこそうまれる孤独というのも、当然ここにはない。そうして抜け出しがたい、孤独のなかで、孤独であるということだけが、孤独をふかめつつ、生のありかのように灯っている。灯っていると、にわかにはいいがたい、かたちで。
「幾度」も、なんどもなんども、そして「だれもだれも」。遠くよぶためのみじかいことばのように、「孤独なり」がながくおもたくひびく。