ひとねむりしたればおおかた人降りて旅上のひとりがふいに身に沁む

池田裕美子『時間グラス』(短歌研究社、2022年)

 

うたは連作で読むと、「東舞鶴」終点、「日本海」へ抜けようと「特急」に乗った、途中「亀岡あたり」とあるので、特急「まいづる」に乗っての旅ということになろうか。おもいたって「最終」の「特急」に乗っての旅とのこと。いいなあ。いまこれを書きながら路線を調べてあれこれみているだけでたのしくなってくる。

 

京都から乗ったとして一時間半あまり。とくべつ長旅というわけでもないが、おもいはいかにも格別である。「ひとねむり」して目覚めてみると、「おおかた」降りてしまって、ぽつりぽつりと人の気があるのみ。にわかに「ひとり」ということ、そして「旅上」にあるということが意識される。なにかこころぼそいような、あるいはさびしさまつわるような。

 

この、ここでひとが乗ってここで降りて、このあたりまでは混んでいてここからは空いてくる、というような車内の具合をつかみかねるところも旅先ならでは。はっとして目覚めてみると、とりのこされたようにひとりなのだ。

 

連作のさいごのうたに「三十数年ぶりの一人旅」と詞書がつく。それゆえの感慨というものの兆すころかもしれない。いよいよ旅らしくなってきたぞ、というほのかなよろこびさえ漂う。「旅上」といえば萩原朔太郎の詩があるから(『純情小曲集』)、あるいはそういうこころを思い浮かべることもできる。

 

いずれにしても、それを「ふいに身に沁む」といってさりげなくひきとるところに、うたの姿がある。ぜんたいに字余り文体の、しかしねばりづよさとは違う、むしろやさしい息づかいのたつ歌集にあって、旅の時間・空間のこもった一首とおもう。

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