桜には横顔がないからこわい春から春へ枝をのばして

大森静佳「ムッシュ・ド・パリ」『女性とジェンダーと短歌』短歌研究社,2021

 

わたしは学士、修士、博士と編入をくり返していて、今は三つ目の大学に通っています。

そこは研究棟の外階段のそばに桜の木があって、この時期になると踊り場でお花見、という贅沢を味わうことができます。

普段は真下から見るその樹々の表情を、見下ろすかたちでのささやかな宴。そこで初めて、じつは桜は器用におもてを向いて咲いているのだ、ということを知りました。

この語り手のかたる通り、たしかに記憶のなかでの桜花はいつだってわたしたちのほうを向き、その完璧なかたちを保っている。

それって、じつはけっこう異様な光景ではないか。

 

そのうえ「顔が」と言われただけでは、なんとなく慣用句的な使われ方を思い出して、ぼんやりとした、掴みどころのない光景が彷彿とさせられますが、

「横顔がない」と顔向きまで指定されると、「ある」はずの顔が仮構され、”完璧な”桜花が微笑んでいるような感じまでする。思わずおののきます。

 

下の句の「春から春へ」も、春からつぎの春へ、という四季の流れを感じさせるものではなく、途中の3つの季節がなかったもののように描かれている。

まるで歌の中で伸びてゆく枝が、その時空を覆いつくしているような錯覚をおぼえます。

「こわい」と呟いている語り手の、仮定される視界のすべてが心底こわいのです。

 

例えばずっと、言葉へとわに根付いてしまう、宛て先の決まっている(とされる)「きみ」や「あなた」の歌がこわかった。

現実・虚構という、恥ずかしいくらいの二項対立の外側に立つということを、文字通り、身をもって体験することができるから、こわい映画もこわい物語も、わたしは大好きなはずなのですが、

この、「歌がこわい」という感情の正体についてはまだうまく言語化できなくて、「こわい」歌を読むとき、その感応について、ずっとじっと考えて続けてしまいます。大森氏の歌を読むときなどは、とりわけ。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です