加藤治郎『混乱のひかり』(短歌研究社、2019年)
ひとつまえのうたに、「してという唇がきて」があり、またひとつあとのうたには、「くらやみでふれるあなたの」があり、またさらにその前後のうたなども合わせて考えると、このうたもやはり、一連の性交の場面のなかにあるとおもっていいだろう。
水に「からまる」のは「白い根」だが、そこには当然、人と人との「からま」りあう光景がかさなって映る。もうすこし注意深く読むと、「白い根に水のからまる」ではないところにある反転がおきているのであって、ここにも性交のニュアンスを感じとることができようか。
うたはこの「白い根の水にからまる深夜には」の「白い」「水」「深夜」などが縁語的にも「ひんやり」を導きながら、「すてきなまぶた」というところに収束する。あついからだの、「まぶた」だけがしんとして印象深い。
あるいは「深夜(shinya)」「ひんやり(hinyari)」の音のつらなりが上の句と下の句をなだらかに接続しつつ、「白い根の水にからまる」から直感的にわたしが想像したのは、水栽培のヒヤシンスだった。その音が、「ひんやりとしてすてきなまぶた」のなかにちりばめられている。ただの直感ではない気がする。
一連のこのうたを含むパートは、つぎのうたが「葉脈のような体が水になるまで」とあるように、植物をひとつのモチーフとしてまぎれこませながら、そのイメージのからまりあいと、語の連関、音の連関がゆるやかに(なめらかに)、しかしきつく一首を縛りあげている。うつくしい光景、なだらかなうたい口の、それゆえのこわさのにじむ一首とも言える。