激情の匂いするみず掌にためてわたしはすこし海にちかづく

江戸雪『椿夜』砂子屋書房,2001

 

激情。沸き起こる、とどめがたいほど激しく強い感情のこと。

怒りだろうか、悲しみだろうか。わたしたちは、じつは「激情」の内実をよく知らない、あるいは認知できていないことに気がつく。

 

この語り手は五感のうち、何よりもその「匂い」をつかみ取っている。加えて、喩えられたのはその「匂い」のする「みず」。

わたしたちは、水の匂いもじつはよく知らないことに気づいてハッとする。

(「水臭い」とは言うけれど、それはなにがしかの関係性の薄さを指摘するものであって、ほんとうの水の臭いの喩ではありませんし)

「激情」というとてもはっきりとした感情を掬い取っているというのに、「みず」が呼び起こされることで、それが限りなく無味無臭で、何故だか透きとおったもののように感じられるのもふしぎ。

この歌にはさまざまな位相の謎が染みわたっています。

 

そして下の句での「海」へ「ちかづく」というのが、歩みを進める、という距離的なものなのか、擬態する、という身体的なものなのか。

きっと、敢えてわからないように語られていて、それぞれの、そのときどきの読み手にゆだねられているのかもしれない、と思う。謎は謎のまま、何かにとって都合のよい〈現実〉に、感情や言葉が塗り替えられてしまわぬように。

 

作中主体はその水を「」に溜めている。

てのひらに水を溜める、という行為は、身動きが取れない状態でもあり、「わたし」は言葉の中でのみ「海」に近づくことが叶っている。

それはなんだか、何かの祈りの姿勢のようにも見えます。

 

詠うことは言葉に身を窶す行為であって、それでもなにかに「ちかづく」ために、祈るように言葉をたぐりよせるしかない。

そのつめたい移動こそが、この世で歌を詠む「わたし」に居場所を授けるのだろうな、と思うのでした。

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