上野春子『雲の行方』(六花書林、2019年)
あらかじめ話したかなにかして「面接受けに行」ったのを知っていたその「友」を、のぞきに、ということでもないだろうが、ちょっと顔出しに、くらいのことで「そのうどん屋」に来てみると、さて、その「顔見あたらず」。どうしたことか。
「そのうどん屋」に「その」とあるので、友が受けに行くといううどん屋を、具体的にどこそこの店、というふうに知っていたのだ。知りながらやって来た。なにかちょっと話でもして、くらいのことかもしれないし、あるいはもっと、たとえばその後を案じて、という感じかもしれない。うまくやってるかな、とか。
いろいろ想像する。店の規模とか、うたのわたしとお店のつきあいとか。まあでも、面接というのは受けたから受かるというものでもないのだし、見あたらなくてもそれはそれで、そんなものか、となっていいようなもの。しかしこのうたでは、いかにもその「顔」があるのをはじめから想定しているふうで、その当然と言わんばかりの口調にわたしとしては虚を衝かれた。
それはたとえば結句を「その顔なくて」、というような言い止しにして事情をふくみこませず、「顔見あたらず」としてきっぱりと言い切ったところにもあらわれているが、あるいは「友」をさがすのに(「見あたらず」に「さがし」た痕跡がある)「顔」で判別しようとしているところに、制服なりなんなり店のかっこうして働いているであろう友のすがた、という想定もまたにじんでみえるのである。
そんなわけで一読「佐野朋子をらず」(小池光)をおもったのだが、こんど「うどん屋」のリフレインのほうを見てみれば、「ミツビシのボールペン」(奥村晃作)の味わいもうかんでくるわけで、「うどん屋」その「うどん屋」のくりかえしと、「友」「顔」のくりかえしとが、微妙にちがったものでありながら、それらが縒りあわさるようにして一首があるようだ。
真顔正面の迫力というか、ふしぎなおかしみのなかに読んだ一首である。