栗木京子『ランプの精』現代短歌社,2018
この歌集には大きく分けて2種類のうたがおさめられていて、「語る」うたと、「物語る」うたがある。
関連死が直接死の数超えたりと福島の空に黒き鳥飛ぶ
セウォル号のセウォルは歳月 若者の今日も明日も海中に消ゆ
メロディをつけずに我は叫びたし雨の国会前に来たりぬ
東日本大震災、セウォル号沈没事件、安保関連法案の可決といった時事、そして日々の出来事について語り手が「語る」うたたち。
そこには、言葉にしなければならない、という、書き手としての芯の通った、つよくて熱い意志が透く。
それらは読み手であるわたしたちの、それぞれに刻み込まれた記憶を照らします。
ただし、この語り手は必ずしも事実だけを見ているわけではありません。ときにはファンタジックなせかいを「物語る」こともある。
きょう取り上げたこの歌も、「物語る」ほうの歌です。
夢の内容を読み手に差し出す語り手。作中の主体は眠っており、夢の中で「誰」かとはぐれてしまう。
「はぐれる」という表現は、人混みの中で連れの人を見失って離ればなれになること、どちらかというと大人よりも子どもに対して使われることの多い表現です。
もしくは、群れで活動していた生き物が、その主流から外れてしまうことも示すでしょうか。
語り手はその様子を、「誰とはぐれしわれならむ」という。
はぐれたのは「われ」自身なのに、どこか小さな存在を見守るような口ぶりで、「はぐれたること少しうれしく」と続けます。これらが、この歌に不思議な余韻を残しています。
誰かとはぐれて嬉しい、というのは、いったいどういう状況なんだろう。
この歌集の中にはほかにも、「いったいどういう状況なんだろう」という歌はあって、例えば、
われはむかし君に撃たれて長々と掲げられてゐし兎なるべし
なども、場面を想像すると歌の景がとたん煙に巻かれてしまうような、表情豊かな歌たちが散らばっているのです。
これらは、なによりも、こらえきれず言葉にしてしまった、というような、不思議な勢いを感じる。
事実を見すえ、現実に生きる「われ」とはまた別の、こころの中に棲んでいるもうひとりが、思わず物語から飛び出してしまったかのように。