久津晃『硝子の麒麟』(砂子屋書房、2007年)
よきひとを待つ、松浦の里の夕まぐれ。そんな人はあらわれず、ただ、どこからともなく梅の香がただよってくる、というふうに読んだらいいだろうか。歌集では、
よきひとを松浦の里の夕まぐれいづこともなく匂ふ梅が香
とルビがふってある。「よきひとを」はうしろにどうする、という動詞をともなうはずで、しかしそれらしいものは見当たらないので、直後の「まつ」に掛かるととった。「松浦」を導きつつ、そこに「待つ」がかけられている。人影あわい夕どきのうす暗いなかに、どことなく人の気を感ずるのである。
それは「梅が香」にさそわれてのことかもしれない。「いづこ」は何処、どこ、だが、「待つ」をおもえば「出づ」の気配ただよう。なにかよきひとあるような感じして梅の香におう夕まぐれ。しかしそういうひとはなく……。重層的で、一首のふくみもつものゆたかな一首である。
あるいはここに、百人一首から定家の
来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身も焦れつつ
を並びおいてもいいだろう。(『新勅撰和歌集』巻第十三・恋歌三・八五一、うたの引用は『国歌大観』を参照)
うたは本歌取りの気分をまといながら、しかし掲出の一首にあるのは、対照的にも幽玄の感じであり、あるいはうたのわたしさえ消えてしまいそうな、あやしい夕まぐれの雰囲気である。死後の世界、また人のいないこの世というものをさえおもわせる。