春のひかり充ちれば重い荷のように流すよ笹の舟を浮かべて

古川順子『四月の窓』砂子屋書房,2020

 

春。芽吹き、希望、何かのはじまり。この国においては、それらをもっとも多く抱いている季節。

その「ひかり」に対して、「充」ちるという字の当てられているところが、ふしぎと香り立つように感じます。

なぜなら、月の満ち欠け、潮の満ち引き、満ち満ちて、等、明るさや自然や、どちらかというと正負の正のほうの感情の溢れるような場合、わたしがしばしば目にするのは「満」のほうだったからです。

 

この歌で使われている「充」は、充実、充填、充電、等、何かがみたされる、という事象よりも、溜まるべき質量が決まっており、そこにあるべきものがあるべき数や量の分補われる、ということのほうに重きが置かれているように感じる。

それは冒頭で挙げたような「芽吹き、希望、何かのはじまり」という表現とはなんとなくそぐわなくて、この「春のひかり」には、そういったものとはまた別のきらめきを感じ得るのだろう、と予感させます。

 

さらに、その「ひかり」が充ちることで形容されるのは「重い荷」。「重い荷のように流す」というのは、なんとなくイメージすることはやさしいのですが、具体的な情景として何かを挙げるのはむずかしい。

ゆっくりと、慎重に、丁寧に水平移動をする「春のひかり」を想像します。

 

ところが最後、「笹の舟を浮かべて」の「笹の舟」で、それまでの「ひかり」に「充ち」た「重い荷」というイメージが転覆します。そして語り手が指示していたのは「流れる」ひかりのほうではなく、そのひかりを「流す」側だったのか、とハッと気がつく。

すると、とたん流動性のある水分をともなった作中の主体が、軽々と、けれど何かの重大な任務を遂行するような手つきで、「春のひかり」をわたしたちに運んでいたことが明らかとなるのです。

 

この一連の出来事は、「春のひかり」=「芽吹き、希望、何かのはじまり」というイメージの安直さそのものを、柔らかな言葉でするどく指摘する、うつくしい暗喩のようでもあります。

 

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