くちぶえは背中にぬけてぼくたちにもうふらふらと夏がきたんだ

東直子『青卵』(本阿弥書店、2001年)

 

「ぼくたち」というから、たとえば三人、四人ならんで歩いている場面を想像する。くちぶえ吹いていくらもたのしそうな道である。夏のはじまりをかくしきれずよろこぶ、ほのかなこころが見えてくる。

 

くちぶえは「背中にぬけて」、というのは吹いたそばから背中のほうへ流れていって、つまり、あらゆるものは「ぼくたち」のうしろのほうへたちまち過ぎていくのであって、眼前には、ただまばゆい夏がある、ということだろう。「ふらふらと」にはある種の陶酔感さえあるようだ。

 

しかしこのうたにあるはずの、ぎらぎらとした、力みなぎるような夏の雰囲気はどこにも見当たらない。と、立ち止まってみると、「背中にぬけて」はもうすこし文字どおり、背中をつきぬけて、とはおもえまいか。夏がやってきて、「ぼくたち」の体がだんだん透明になっていく。体をうしなって、たましいだけになっていくというか。

 

だから「ふらふら」なんだ。読者のわたしはここで、少年たちのまだあわい肉体、というものを連想する。そしてまた、そのまだ体の輪郭のぼんやりとしたころだけにある、夏という季節とのとけあうような関係をおもう。やがて失う、もう戻らないいっときのこととして。

 

うたはその「もう戻らないいっときのこと」を、うたのわたしひとりだけがあらかじめ知っているかのようで、どこかタイムリープ的でさえある。夏が「きたんだ」というどこへ呼びかけるともないつぶやきにも、その「ひとりだけ」の気分がでていよう。「ぼくたち」がこんなんでいられるのも、いまのうちだけなんだぜ、とでも言いたげな、ある哀しいおもいがとおっている。

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