ミュシャの描く裸婦が嫌いだ それに似て膨らんでゆく私の胸も

秋山瑞香「全国高等学校総合文化祭文芸部門作品集(短歌)」,2008

 

最近、というのは、長いながい二十代を終えてから、なんだか異様に疲れやすくなった。徹夜でものを書くことも本を読むこともできなくなり、栄養の消化もぐんと悪くなった。わたしの身体は確かにわたしだけのもののはずなのに、何か別の、大きなものに乗っ取られてゆくような感覚。以前もこんな感覚を抱いたことがあったな、と思い出す。たしか、二次性徴のとき。

 

今日取り上げた歌は、わたしが高校三年生のとき、群馬の伊香保で開催された全国高校生総合文化祭の、短歌部門の提出作品のうちのひとつです。

総文祭はいわば「文化部のインターハイ」で、文芸部門は当時、それぞれの都道府県大会で首位を獲った子たちが参加していました。

 

「ミュシャの描く裸婦」。豊満な肉体と、うっとりとした、あるいは煽情的な表情をたたえた女性たち。

「それ」の内実が、描く裸婦の(からだのように)膨らんでいくわたしの胸、なのか、あるいは迎えに行って読むとすると、絵が嫌いだ(という感情のように)膨らんでいくわたしの胸(=心)なのか。

 

生身に寄せる読み方と、心身の通うさまを読み取る方。その両方に共通しているのは「ミュシャの描く裸婦が嫌いだ」という語り手の吐露。

他者の、あるいは〈男〉の視線で描かれたもの、それらにおのれの身体が引き寄せられていくことに対する嫌悪感。目には見えない「大きなもの」に乗っ取られてゆくような感覚。

と、今だからこそそう読み取るのですが、当時のわたしは、主に二次性徴に対する戸惑いや拒絶、畏れを感じ取っていたようです。

でもそれも、確かに、目には見えない「大きなもの」に乗っ取られてゆくような感覚、のひとつなのかもしれません。

 

蔵書の整理をしていたら、久しぶりにこの作品集が発掘されて、当時残されたメモと今の「読み」が全然違っていることにびっくりしました。

無知と無意識のその先に、また別の「読解」があらわれる。ふしぎと通底した「読み」がありながらも、歌そのものが新しく彩られることもあるのだな、と、改めて感じた出来事としてひとつ、書き残したかった。

 

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