黒瀬珂瀾『空庭』(本阿弥書店、2009年)
前回の東さんのうたを読みながら連想したのが、このうた。歌集では
冬の朝鎖されて舌からめあふくちづけをやめないで、おとうと
とルビが振ってある。たとえば兄とおとうとの、「くちづけ」の場面を想像する。冬の朝である。「鎖されて」は、部屋にふたりきり、という大枠を言ってもいようが、「舌からめあふ」であるから、口で口がおおわれて、すなわち「鎖され」た状況にある、という、よりクローズアップされた形をおもう。
上の句でまず、そのクローズアップされた部分だけが映される。下の句では、「舌からめあふ」と言えばそれは「くちづけ」なのだが、それをあらためて述べながらカメラが動いていく。
あらためて述べる、というところにうたのわたしの覚悟のようなものがにじむ。「くちづけ」と言わなければ「くちづけ」にはならなかったかもしれないものを、「くちづけ」と言い切ってひきとっているのだ。
そうおもって読めば、このさしはさまれた「くちづけをやめないで」という声に、「鎖されて」がいよいよ熱をもつようである。その呼びかけるさきに、ここではじめて「おとうと」という相手があらわれる。イメージがもうひとつぬりかえられる。
「くちづけをやめ」……「ないで、おとうと」という句跨がりは、あるいはある逡巡のためのものかもしれない。であればこそ、冬の朝のしまれる空気、「鎖」という字のつめたくかたい印象とは対照的な、このふたりのかかわりの、熱く、しかし儚くせつないところが見えてくる。
漢字の詰まったうたいおこしからしだいにほどけてゆくその表記が、そのまま体の喩でもあるような一首。