黒瀬珂瀾『ひかりの針がうたふ』書肆侃侃房,2021
昨日の山下さんの評を読んで、わたしも黒瀬珂瀾氏の歌を読みなおしてみたいな、と感じたので。
「産む」という表現は専らいきものの胎児を送り出すことの動詞として使われているけれど、実際に「産む」ような場面は、いきものの胎児を「産めはしない」側のにんげんにも散らばっている。
じぶんの中から、全く新しいものが創り上げられ、この世界へ息吹を与える。
けれど、それはすでに、生み出された瞬間から自分とはまったく異なる意志や感情や可能性を孕んでいる。
ものを書くときはいつも、自分のなかの火の子を育んでゆくような作業だとも思うし、それだってむつかしいのに、ましてやなまないきものを健やかに育てるというのは至難の業だと思う。
「〜やしない」は「(〜するべきなのに)〜しない」という意味の文型で、不満や非難の気持ちを込めて「〜するべきなのに〜しない」と言いたい時に使われたりする。一方で、「絶対に〜ない」の意味も持っていて、強調の表現としても使われるようです。
「産めやしない」の絶対の否定、あるいは自身に対する非難の声を、二言目には「産めはしない」と言い直す。そこに「が」が加えられることで、そうはしないが、という、初句では表れなかったもう一方の選択肢が生まれる。
産めはしない、けれど、語り手は「五月なる疾風」までをも呼び起こし、「アメジスト」に対して発光の機会を与える。
「アメジスト耀け」は何かの呪文のようにも見えるし、「産めやしない、産めはしない」のが「アメジスト」自体にかかっているようにも見える。そう捉えたところで内容に大きな変化は見られないので、この読みのブレはきっと誤差の範疇。
現実において「産」むことのできない、あるいは選択をしない作中の主体は、言葉のうえではあの美しい紫水晶を、それを包む五月の風を、わたしたちの眼裏に生み出すことができる。
そのとき、貴さをイメージさせるその色が、その耀きが歌全体を包み込む。この「包み込む」というのは母性も父性もともなった、そして神性も人間性もあわせもった不思議な感覚なんだ、ということに気がつかされる。
だからこそこの歌を読んだとき、わたしたちはどこか、大きなものに慰められるような心地すら覚えるのではないでしょうか。