山崎郁子『麒麟の休日』(1990年)
この歌は、何かに絶望しているひとが呟いた言葉のようである。
あるいは、とてつもなく大きな夢を描いているひとの輝く声に聞こえる。
いずれにしても、ふかくふかく胸のなかにしまっておきたくなる。
どこでもないところ。
それは、見知らぬ場所なのか、天国なのか地獄なのか、それとも雲の上か、海の底か。
おそらくそれは、ここ、ではない、どこか。
あなたでなければならないひと。なに?誰?
あなたはあなたであって他の誰でもないことは自明のことなのに、あえてこう限定されると不思議にも不安にさせられる。
「普遍は存在するのか」「実存に理由はあるのか」という問いや、エミリ・ディキンソンの詩の一節「わたしは誰でもない あなたは誰ですか」などがじぶんのなかに横たわっている。そうすると、死や愛に触れるときなどに、そこから動けなくなることがある。
この歌を読むと、それと同じような空間に迷い込む。それは孤独で澄んだ空間だ。
歌集には次のような歌もあり、この作者の禁忌にも似た純粋性を感じとることができる。
耳底で啼きつづけてゐる蟬 あにの目をした男(ひと)とくちづけながら
抱き寄せる掌(て)のひややかさまなうらにくらべられないゆふやけのいろ