魚村 晋太郎


春塵をうっすらと置くポストぬぐう偽名も筆名も使わず生きて

玉井清弘『麹塵』(1993年)

春になると風が立つことが多くなり、地面を覆っていた雪や霜もなくなるので、埃や塵が舞いやすい。これを春塵(しゅんじん)、といったり春埃(はるぼこり)といったりする。
黄砂と混同されることもあるようだが、厳密に言えば、中国から海を渡ってくるのが、黄砂、国内由来のものが、春塵、ということになる。
帰宅して、郵便受けを見ると、うっすらと春塵が積もっていた。偽名や筆名のことがふと意識されたのは、郵便受けに表示してある、或いは郵便物に記された、自分の名前を見てのことだろう。

偽名を使ったことのある人はどれくらいいるのか。
宿帳の名前の欄に出鱈目な名前を書いた体験くらいなら、結構あるかも知れない。
筆名といえば、戦前の歌人の場合、子規、鉄幹、啄木、というように、雅号のような筆名を持っていた人が多いが、戦後から現代にかけては、これ見よがしな筆名を使う人は少なくなってきた。

人はいくつかの顔を持って生きている。
子としての顔と、親としての顔。家庭での顔と、職場での顔。
どんな実直な人でも、それらは重なりながら、少しずつずれている。
家庭を持った人が恋愛にのめりこむときや、職業を持ちながら表現者として打って出ようとするときには、それまでの自分の顔を捨てて、全く別の顔の自分として生きてゆきたい衝動にとらわれることがある。そして、多くの人は、いくつかの顔を持ちながら、結局はたったひとつの人生を歩む。

そう考えるとき、名前とは、いくつかの自分の顔、あるかも知れない別の顔をふくめて、それらを貫き一人の「私」に回収する一本の棒のようなものである。
作者は教育者でもあり、筆名を使わずに表現をつづけることに具体的な制約を感じた時期もあったのかも知れない。
ふりかえって、或いは別の人生があったかも知れない、という感懐をかすかに滲ませながら、一首には、たったひとつの人生を歩んできたという作者の自恃が、おだやかにみたされている。