グレープフルーツがどうしても食べたくてローソン100で買った包丁

伊舎堂仁『感電しかけた話』(書肆侃侃房、2022年)

 

このあいだ文旦をむっつもななつもいただいて、さてどうやって食べたらよいかと困ったことがある。みかんを何倍にも大きくしたような柑橘類のくだもので、またの名をザボンと言う。みかんの要領でもって皮を剝いて、とはいかない。やはり包丁だな、とおもって一切り、二切りしてその分厚い皮というか、綿状のものにおどろく。さてどうしよう、という次第。

 

結局なんかかんかしてぼそぼそ食べたのだが、うたは「グレープフルーツ」である。これも柑橘類。文旦とオレンジから成るらしい。「グレープフルーツ」食べようとおもって、なにかいただいたとかではなく、なるほど「ローソン100」に買いにいったのだと、まずはおもった。(あとでいろいろ間違いだったとわかる。)

 

「ローソン100」というのは、「ローソンストア100」のことだろう。コンビニのローソンはご存知とおもうが、その派生というか、いろんなものが100円で売っているローソンである。なるほど、カットされたグレープフルーツ、売ってそうである。ちなみに歌集では「100」が縦中横で記されている。

 

結句、じっさいに買ったのは「包丁」。これがこう書かれると意表を衝かれてなんとも禍々しい。「グレープフルーツ」を買いにきたのではなく、グレープフルーツ食べるために「包丁」を買いにきたのだ。「食べたくて」というのに読者のわたしはいささか誘われたわけだが、これが「切りたくて」「剝きたくて」ではおもしろくもなんともなかったとおもう。

 

たしかにグレープフルーツはパインやメロンではないのだから、カットされて売られているようなものでもなさそう。いや、だんぜん包丁である。「どうしても」はむろん「食べたくて」にかかるのだが、ここでは「包丁」と「どうしても」が手をとりあうようで、ほのかな殺意ただようそのあたりにおどろきつつ、またうっすら寒気を感じつつ読んだ一首であった。

 

グレープフルー/ツがどうしても/食べたくて/ローソン100で/買った包丁

 

そうおもうのは、もうひとつ、たとえばグレープフルーツをふだんは食べられなくて、でも今日は「どうしても」食べたい、とか、あるいはふだん包丁を使わない暮らしをしていて、ないならないでいいものを、「どうしても」食べたくて買いに行く、それも「ローソン100」に、というあたりに、背景にある暮らしというものを感じるからである。が、ここまでくると考えすぎかもしれない。

 

体言止めの「包丁」がいつまでも手元に浮かぶようで余韻深い。

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