西藤定『蓮池譜』(現代短歌社、2021年)
たしかに「木は老いて痩」せることがないなあ、とおもう。樹齢何年とか言って、年をかさねればかさねるほど大きくなるイメージがある。どこまでも、ということはないにしても、むしろ「痩」せる、ということを想像できない。木材となればまたちがってくるが、生きた木であれば、それは痩せない、ということだろう。
ここでは「梅」の木がでている。梅の木などいかにも老いて痩せているふうではあるが、梅はそもそも、若いころからあのすがたをしているのであって、老いて痩せているわけではない。では老いて痩せるのはなにか。むろん人である。一連は「祖父」の老い衰え、やがて死にゆくまでをうたう。
庭の梅の木に実がなっている。梅雨のころだろう、みどりの丸々として、いかにも重量感のあるそれが、曇天のようにくらぐらと庭を覆っている。「むかしほどは(実を)つけなくなったねえ」という台詞をどこかで聞いたようにおもうが、梅の話だったかどうか。いまは眼前に、痩せ衰えていく祖父とは対照的にも梅の実のみどりが充実している。
「統べつつ」は「すべつつ」と読む。支配するがに、ということである。ここにある苦みを感ずる。老いて痩せるか痩せないか。いずれをよしともおもえない。それぞれに抱えもつものがある。そのことを、それゆえに揺れつつ、おもうのである。
二句切れのちからこもった言い切りが、この「つつ」とならぶことで、そう言い切ってみせたいうたのわたしのこころを映すようである。