「smileの綴りはスミレとおぼえてた」どうりでそんなふうに微笑む

西村曜『コンビニに生まれかわってしまっても』書肆侃侃房,2018

 

 

花のように、という比喩が、とてつもなく陳腐なものとなり果てた現代に、こんなに素敵なほほえみの喩があったのね。

使い古されたはずの「花」の表現が新しく芽吹き、わたしたちの目の前で「スミレ」の花が何度でもひらきながら。語り手が歌の中に詠み込んだ「きみ」に対する、まるで陽の光りのようにあたたかな感情がこちらにまでこぼれてくるようです。

 

この歌集を読み通していちばん印象に残ったのは、語り手の繊細な、鋭くて優しい聴覚についてでした。

優しい視線ととてもよい耳をもつこの語り手は、それがどんなに小さくとも、当たり前のものとして存在しようとも、虐げられる側に対する視線を決してそらさない。

 

「いたみってすごい空港名だよね」それはしずかに発着をする

カワハギは皮を剥がれる前提の名前であればだいきらい、ひと

 

聞き間違いによって大きく意味の変わってしまう言葉たちの多くは、死と隣接している。

そして音だけではなく、些細なニュアンスの変化も聴き逃さない。

 

かんぜんにイントネーション「水死体」だったよいまの「恋したい」って

きみのこともっとしにたい 青空の青そのものが神さまの誤字

 

生きていることを静かに、傷つけまいと恐れながら、確認する手さばき。

だけど、この語り手はそうやって世界と触れ合っているのだ。くりかえしくりかえし、ときに優しく、ときに烈しく。

 

死にたい、はいつか詩になる飛行機は飛行機雲を空においてく

 

その手は、音や言葉や感情を、大切にすくって取っておく。

たとえいっとき苦しくても、「いつか詩になる」という光りを、そっと指し示しながら。

前回、「名は体を表すと言うけれど、その諺でしっくり来る例を魚の他に知らない気がする」と書いている途中で「カワハギ」のことを思って、ふたたび手を取りたくなった歌集でした。

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