あかときのカーテン青く、水槽をよぎる魚影のやうにさびしい

伊東文『逆光の鳥』青磁社,2018

 

明け方の、世界がもっとも青い時間。そのあとに世界がぐっと彩度と光度をあげてゆく、太陽が顔を出す寸前の、半透明の時間。歌の場面はそこから始まると取りました。

 

上の句「あかときのカーテン青く」は、「あかとき」と「カーテン」のa音の連なりに、tの子音が耳障りのよいアクセントとなって、色彩と音韻の両方から情景に一体感を持たせているようです。

 

そして「、」での句切れから下の句へと導かれる。語り手のひと呼吸置く様子というか、とても静かなところで、ゆっくりと囁くように記される読点。

さらに「水槽をよぎる魚」ではなくて「魚影」なので、歌の中で魚は存在感を消し去って、その気配だけを語り手に差し出しているのです。

 

「魚影のやうにさびしい」と読みなおしたそのとき、上の句の「カーテン」が揺れる様子が、わたしたちの脳裏でゆらりとくゆる魚影と重なります。

つまり、なによりも不思議なのは「のやうに」。シミリなのに、暗喩のような働きかけをしているのです。

 

何もかもが静かな、ほの昏くてあかるいあかときの時間。月も太陽も、魚も、確かに存在するけれど、それら以外の、目には見えない何かの気配をまとった世界。

そこでは語り手の「さびしい」という吐露が、カーテンや魚影といっしょに、ゆらゆらと青く漂っている。

 

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