高野公彦『無縫の海』(ふらんす堂、2016年)
短歌日記というスタイルの一冊で、このうたには、四月八日(水)の日付がともなう。立夏すぎてすっかりみどり茂るころとなったが、ひと月まえ、あるいはふた月まえの、どの木もまだ今年の葉っぱの出初めばかりであったころをおもいかえす。
このうたの場合は、「私の住むマンション」の「中庭の一角に藤棚がある」という、その藤の若葉である。年ごとに若葉をつけて、またことしも一年がはじまる。やわらかくよわよわしく、しかしたしかにみどりで、ほのあかるさまとう。
久闊というのは「久しく会わないこと」であり、久闊を叙す、というのはだから「お久しぶりですね」「どうもご無沙汰しております」といって挨拶する、という意味。ふたたび春がめぐってきたことを感じながら、そのことに謝する気持ちも含まれていよう。ひとこと、挨拶をするのである。
「築三十七年」のマンションの「私は新築の時からここに住んでいる」というから、マンションとは長いつきあいなのだ。この藤棚はその頃からあったかどうか。いずれにしても、花のころではない藤をうたって、「今年の」と言えるだけのつきあいがある。
藤棚であればおのずから「仰ぎて」というかたちになるわけだが、上を向く、というこころの向きも、ここにはあるようだ。ひとつマンションにかかわって親しむ藤棚とわたし、その間柄ならではの情感にじむ一首である。