物干し竿長い長いと振りながら笑う すべてはいっときの恋

五島諭『緑の祠』書肆侃侃房,2013

 

この歌のいちばん煌めいているところは「笑う すべては」の一字空け・句跨りで、この空白のうちに語り手は「笑う」をしている若者から、一瞬でかみさまのような存在へと昇りつめる。

 

上の句は単純な情景描写で、下の句は呟き、というような「実景・つぶやき」の歌は枚挙に遑がないけれど、この歌はちょっと特殊だ。上の句と下の句の混ざり合うような第四句目の意味の切れめは、「笑う」をしている作中主体の表情と、そのあとの「すべてはいっときの恋」と、どこか達観したことを述べるかみさまのような存在との貌つきが重なり合う。

その「笑う」の部分だけ、声が二重になっているような、不思議な感覚をわたしたちは味わいます。

 

箸が転んでもおかしい、は年頃を表すことわざだけれど、物干し竿が長いだけでも愉快というのもきっと熱っぽくて短い季節のようなもので、細長い棒のようなものが目の前で移動している、というのは、楽しい時季にいるひとたちにしか感じ得ないユーモアが染みついているのかしら、と読んで、そんなことはないだろう、とすぐに思い直す。

それなのに、わたしたちはその季節のことをなんとなく知っている。個々に経験したことのある事象はまったくの別々のことがらのはずなのに、一連の出来事が「物干し竿長い長いと振りながら笑う」というフレーズと重なり合う。幾重にも幾重にも言葉と情景とが積み重なった、軽やかさと甘さがそこにある。

 

この作者に関しては、他にも有名な

 

こないだは祠があったはずなのにないやと座りこむ青葉闇

若いうちの苦労は買ってでも、でしょう? 磯の匂いがしてくるでしょう?

 

などからも、時空に聡いまなざしを向けているのがわかります。さきの世からすればどんな今もいちばん若いわたしたちに向けた、エールのような、まじないのような。

 

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