志垣澄幸『鳥語降る』(本阿弥書店、2021年)
石をほって仏のかたちにしたものが、歳月のなかでふたたび、もとの石にかえってゆく。「石仏にされたる」であるから、そこにはおのずから石をほる、石をほらせる、人というものの姿がうつりこむ。
松村正直『紫のひと』に、
目鼻なくなるまで生きるということの人にはなくて石仏は立つ
という一首があるが、じっさいに石仏をなした人は当然この世にはすでにない。しかし石仏をなした「人間」というものはいまだこの世にあって、「石仏にされたる」野の石のごときをうみだしつづけている。
「目鼻なくな」り、「貌の欠けて」きた石仏の、それを人のかおとおもえば、いくぶん残酷にもうつるが、もとは「野の石」、ようやくもとのすがたにかえっていくのだとおもえば、むしろ「目鼻」あり「貌」あったことのほうを残酷と言うべきだろう。
一方で、負わされた役をほどかれつつ、しかしその当時を知る人のいない、なにか孤独のかたちも浮かび上がってくる。石仏は、人にはないスケールを存在している。
と、そうおもうのもまた人間のつごうである。一首はある批評をふくみもちながら、野の石に還りゆく解放感を、貌欠けていくことでむしろおだやかになっていく表情を、やさしくうたっている。