武藤義哉『春の幾何学』ながらみ書房,2022
夢はもちろん、春夏秋冬いつでも見るものだけれど、その中でも「春」のそれは、特別に儚いものとしての意味を抱いている。
「儚さ」というと、ほんの少しのさびしさをも感じられますが、この歌の場合、その特質のなかでも「軽やかさ」を多分に含んでいるように見えます。空気をふんだんに含んだケーキのスポンジ、というような。これはきっと「ふかふか」のオノマトペの効果なのでしょう。
そのおかげか、この歌の世界では「さびしさ」のような負の感応は見えにくくなっています。
おまけに、下の句の七音と七音とをつなぐ「が」が、ちっとも「が」っぽくないのです(?)。内容としては「そして」で接続されてもさほど変化はないでしょう。
が、ここでは「対照的な内容」を述べる場合に用いられる接続詞が選ばれている。ここで「が」は、かつての「ふかふか」の状態を際立たせるもの、としての機能をいっしんに背負っている。
それは「春の夢」そのものよりも、寧ろこの「が」こそがさまざまな「儚さ」を体現しているようにもうつります。
そして結句の「かなりへこんだ」。ここでは、力が加わって、表面の一部が低くなること、の意味で用いられていますが、「へこむ」は「やりこめられて困る、へこたれる」というような負のニュアンスも併せ持っているものです。
この歌の中では「儚さ」に寄せられるさびしさが見えないように、「かなりへこんだ」とかたる語り手にとって、それは単なる状態の提示であって、そのほかの負の意味合いはさっぱりとそぎ落とされている。
とても素直な内容でありながら、丁寧に意味を掬おうとすると、ことばが自在に動き始める。その様子が愉しい一首でした。
すっかり初夏、という陽気の日々にこの歌に惹かれたのも、これらの、ことばたちの運動の所為なのかもしれません。