平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』(本阿弥書店、2021年)
立っているうちに、霧が過ぎ、しらさぎが過ぎて、ただ変わり果てたマフラーだけがそこに残った。
立っている/うちに霧が過ぎ/しらさぎが/過ぎてただ変わり/果てたマフラー
立っているうちに、というのはどのくらいの時間か、ほんの数分でも数時間でも、霧が過ぎていって視界がひらけ、あるいは立っているわたしのはたを白鷺が過ぎていくことはあるだろう。しかし、マフラーが変わり果てるには、一日でも足らず、数年、あるいはもう少し長い歳月が要るかもしれない。
一首にはごくみじかい(現実の?)時間と同時に、圧縮された長い時間とが共存しており、歳月のなかであっさりとした風景になっていく、総括されてしまう(あるいはそうせざるをえない)もののなかに、その記憶をとどめるようにして「変わり果てたマフラー」がある。
「霧が過ぎしらさぎが」のひゅうひゅうと風抜けるような韻律が、そこにあった歳月を、そこにいたわたしを煙に巻いてしまうのを、いつまでもこのマフラーがおもいかえさせる。もう立っているばかりでない、立っているばかりでいなくてもいい、わたしに。