このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へ向かふ雨夜かりがね

斎藤茂吉『小園』岩波書店,1949

 

この歌はこれまで、敗戦ののちに詠まれたことと踏まえて、

[戦争で負けたこの国の行方が心配である。「雁よ、どうぞこの国の空を飛ぶときにこの国の現在を悲しんでやってください」という歌ですね](岡井隆「歌ことば 今と昔」,未来九州大会記念講演,1998)

といった読みが多くなされてきました。

 

「このくにの空」。「日本」と言わず、「大和」と詠わず、「くに」とひらがなでひらいてみせることで、戦後に背負うこととなった様々な含意から、語り手は「くに」そのものを解放させているようにも見える。

 

さらに、語り手は鳥の姿を実際に目にしているわけではない。じつのところ、雨の夜、雁の鳴き声を耳にしているだけです。

しかし「このくにの空」を飛び、南国へと渡ってゆく鳥の姿が、かれの眼裏にははっきりとうつっている。

 

その凄まじい幻視の姿勢から、本当にその鳥が南へと向かっているかどうか、ということは、寧ろ語り手にとってはどうだってよいのではないか、とすら感じてしまう。

この歌の世界で大切なことは、「南」へ向かうことのできる鳥がいるということと、対して「空を飛ぶ」ことも「南へ向かふ」ことも叶わない語り手がいるということ。そして、それらの要素によってかれは「沈黙」を破って、呟くようにそっと発話することが許される。

 

ここでの悲しみの焦点は、ほんとうは「このくに」の行く末に対してでははなく、この語り手の居る場と、渡り鳥の目指す「南」とが、どこまでも地続きでつながっているところにあるのでしょう。

 

どうして今この歌を、というような時期と内容ですが、つい最近、米大統領と天皇陛下が微笑み合う写真をあらゆる新聞で目にして、塚本邦雄の有名すぎる一首を思い出さずにいられなかった、ということがあったのでした。わたしはこの「このくにの…」の歌と呼応するように生まれたものが、あの皇帝ペンギンの歌ではないか、と考えているところなのです。

 

 

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