遠目には宇宙のようで紫陽花は死後の僕たちにもわかる花

笹川諒『水の聖歌隊』書肆侃侃房,2021

 

紫陽花は、はらはらと花弁が落ちていくような枯れ方をしない。まさに「立ち枯れ」、あるいは朽ちるという表現がぴったりだ。

同じ根、つまりひとしく生命線を保ちながら、房ごと枯れ残った(枯れあがった?)もののすぐそばに、今年の真新しい房が並存する個体も見たことがある。

 

気になって調べると(無知でお恥ずかしい限り)、じつはわたしが花びらだと見ていたのは萼片が変化したもので、紫陽花は咲き終えたあとでもいつまでも萼が残るために、花が散らないように見える、ということらしい。

確かに、花びらだと思っていた部分をよくよく観察すると、うっすらと葉脈のようなものが走っていることに気がつく。

そしてこのとき、花の盛りを過ぎた、咲き終えた状態のことを「花後」ということも知った。花後に枯れ残った房は剪定すべし、というような文脈で使われている。

わたしはこの歌の「死後」を見たあとだったので、この言葉にちょっとだけぞっとした。

 

わたしたちはまず、「遠目には宇宙のようで」の「宇宙のよう」というシミリを読み解こうとする。そしてここで、「遠目には」の「遠目」をしているのが、いったいどんな存在なのかが気になり始める。

語り手は「僕たち」と、自らを含む存在を、生死に左右されるいきものとして捉えている。「僕」を含む複数の視点を併せ持っているために、にんげんを超越した存在だ、などと、仕掛けをやさしく見抜くことができない。

そして実は、ここで「僕たち」と呼びかけられることで、わたしたちも「遠目」に「花」を思い浮かべることになる。

 

もっとむつかしいのは「死後の僕たちにも」の「にも」。ということは、「紫陽花」は「死後の僕たち」のみならず、「生前の僕たち」はすでに「わかる」状態の何かだということで、そのために、わたしたちはわたしたちなりの「わかる」紫陽花にまつわる光景へと思いをめぐらせる。この文章の始まりのわたしのように。

 

生前の記憶は、死後にはすっかり消え去ってしまうものなのだろうか。それはとてもさびしい思想だ。でも、「紫陽花」は花後も、ありのままの立ち枯れた姿で残っていてくれるから、「死後の僕たち」でも判別できる、ということなんだろうか。今は「死後」のない僕たちには、まだわからない。

でも、「死後」にも生前と変わらぬまなざしがあり、現世の「花」を見て、その「花」にまつわる何らかを「わかる」ことのできるというのは、慰められるような、励まされるような気持ちになる。

この歌を読んだときに与えられた不思議な安堵感は、きっとここに繋がっていたんだろう、と気がついて、そっと息を吐く。

 

 

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