千種創一『千夜曳獏』青磁社,2020
さみしさとむなしさ、その両方の感応は、本来あるはずのものがなくて、心に穴が空いてしまったような感覚のことを言うと思う。
どちらも「満たされることなく、もの悲しい」という状態にありますが、
「さみしい」が心細さや活気の無さ、そして「わびさび」といった言葉に表されるような、静かなしずかな状況を提示するのに対して、
「むなしい」は虚・空の字を当てられるように、「からっぽ」であることを負のニュアンスで捉えたときの、すこしいじわるに言うと、この世界に対する期待が裏切られるときの、ざわざわとした、傲慢なにんげんの目線を感じます。
その目線は、文字通り見下したところに「躑躅の低いひくい木漏れ日」を発見する。
「むなしさ」は同時に、それと相反する感情であるような「渇望」を持ち合わせることがあるから、その「木漏れ日」を目にして、作中の主体はわずかにその感情が癒された、ということなのだろうか。
あるいは、そんな低いところにある「日」に刺激されて、「むなしさ」の泥沼にはまった、ということなのか。
ここでの上の句と下の句とを分断している一字空けは、読み手の謎を一気に背負い、そして想像力をかきたてる役割を担っている。あまりにも重い役を。
それでも語り手はその空白の効果を信じて、ここでの語りを最後まで遂行させず、わたしたちに「木漏れ日」という、光景(こちらも文字通り!)を差し出します。
それは、おのずと望む読解が導き出されるだろうということを、わたしたちにほのかに期待しているようでもあるし、
最後まで言わない、ということで強調されるような「諦念」を、目には見えない形でパフォーマティヴに提示しているのかもしれない、あるいは、その両方かもしれない。