裂けて地にある花びらに人間の童話を聞かす。五月某日

杉原一司遺稿「未定稿」より(引用は塚本邦雄『殘花遺珠』1995,邑書林から)

 

日記ふうの一首。けれど「某日」のおかげで、ある特定の日、その一点の出来事を書き留める、というよりも、五月のうちのどの日にも当てはまってくれる、ように感じられるのがなんとも不思議です。

 

地、花びら、人間、童話。登場するものたちに特別な季節性は与えられておらず、唯一の手掛かりが「五月」。春の終わり、はつなつのどこか。

これらの要素が、よりその「どの日でも当てはまってくれる」というような曖昧な実感を、密かに後押ししているのでしょうか。

 

さらに、「裂けて地にある花びら」と読んで、「開く」や「咲く」といった言い回しではなく、敢えて身体性をともなった表現が用いられていることに気がつく。

そうしてここで、この「身体」性というものは、主ににんげんの身体のこと指して言ってたのか、ということにハッとする。

人間と、そうでないもの、というカテゴライズに拘ってしまうのは、おそらくは歌の腰である三句目に鎮座している「人間」の所為です。

 

「人間の童話を聞かす」の「童話」は、登場するキャラクターが人間、ということなのか、或いは「人間の世界に広く知れ渡っている童話」のことなのか。

この歌の内容だけでは判別がつきませんが、寧ろ、この歌そのものが「童話」の一節のようでもある。

 

「ごがつぼうじつ」の、濁音+つのかたちのおさまりのよい音韻によって、この物語は結末を知らされることなく綴じられる。

作中の主体が、散ってある「花びら」へ「人間」の側の物語について語りかける様子を、リズミカルにわたしたちに向かって説く語り手。

いくつもの語りのレイヤーがこんがらがってしまうことなく、いつの間にかにすんなりと、わたしたちがこの物語を享受していることに驚きます。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です