肺という三角州ありただいま、と言うときひどく海が泡立つ

西藤定『蓮池譜』現代短歌社,2021

 

一瞬、ちょっと混乱する。

この歌の作中主体の体内には、「肺」が「三角州」のような場所として表されていて、そのうえ「ただいま」という発話に呼応する「海」まで広がっている。

「三角州」は山から海へと流れる川のつくる、比較的平らな土地に生まれるもの。

身体がそのように、平地に、なだらかに広がっているものとして捉える語り手は、普段は重力に従って生きているわたしたちに、不思議な平衡感覚を差し出します。

 

そのうえ「海が波立つ」ではなく、もしくは「波が泡立つ」ではなく、「海」そのものが「泡立つ」と言っていることも気になってくる。

ましてやただの「泡立つ」ではなく、「ひどく泡立つ」ということなので、単なる波のざわめきにはとどまらない、わたしくらいイマジネーションが安易だと、あの映画の配給会社のオープニングに出て来るような、派手な(?)海を想像してしまう。

 

ともかくも、この語り手は対象を把握するとき、とてつもなく大きなものを恐れずに指し示している、ということは、たったこれだけの読みからも明らかです。

「ただいま」にざわめくのが「海」ならば、「おはよう」や「またね」や、その他の挨拶に呼応する山や森や運河なども、その体内に広がっている様子をも想像させてくれる。

 

例えばはやりやまいを経て、「肺」という臓器に対するわたしたちの読みは、変化せざるを得ないものの一つであると感じています。

空気感染の問題などもあって、出来るだけ他者へ呼気を伝えぬよう、マスクを着用して、会話は控え目に。

不織布の隔たりのために、単純に呼吸がしづらかったり、コミュニケーションの問題が生まれたり、肉体的にも精神的にも息苦しさをおぼえながら過ごす新しい日常の中で、

この歌を目にしてから、どことなくそれらの「息苦しさ」から解放されるような一瞬が、「ただいま」と言うときに確かに宿るように感じられたのが新鮮でした。

 

 

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