シガー・バーに湧きいづるときいまさらに一青窈『喝采』はわれを酔はしむ

橘夏生『セルロイドの夜』(六花書林、2020年)

 

「喝采」つながりでもう一首。こちらは一青ひととようのカヴァーによるもの。けむりただようような、なめらかでころがしてここちよい一首である。

 

シガー・バーに/湧きいづるとき/いまさらに/一青窈『喝采』は/われを酔はしむ

 

湧きいづるとき、いまさらに、でためこまれたものが、一青窈『喝采』は、でひといきに盛り上がるような韻律である。

 

シガー・バーというから、葉巻とお酒をたのしむような店なのだろう。「喝采」がかかっている。それもちあきなおみでなく、一青窈。この「酔はしむ」というのは、シガーや酒、それをふくんだ気分的なものでありながら、その歌声に、独特のうたいまわしに、あるいは歌世界に酔うということだろう。

 

「喝采」といううたや、あるいは一青窈ということに、どこかで乗り切れていなかった。それがなにか、ここでカチッとはまって、「いまさらに」没入感を得たのである。

 

「湧きいづる」のはなにか、第一にはこの「喝采」であろうが、そこにはもうひとつ感情的なもの、気分的なものが含まれている。湧、青、酔がどこか縁語的にもひびきあいながら、理屈ではないところで混沌としてひとつ世界をつくっているのだ。

 

一首は「美しい国」といういくらもアイロニーこもる一連にあって、そういうものを負いながら、それでも「地上は時々うつくしい」その、ひとつ光景を映しているのかもしれない。

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