ねむりゐるからだのうへに猫が来てひとつながりの闇となりたる

小島ゆかり『さくら』(砂子屋書房、2010年)

 

「短歌研究」誌で連載中の「サイレントニャー 猫たちの歌物語」を毎号食い入るようにして読んでいる。その作者の猫のうたからこの一首を。歌集には〈八月の窓辺でニャンと鳴くことあり君にも思ひ出がありますか〉というとびきり切ないうたもあって、わが愛唱歌となっているのだが、今回あらためて読み直して、この一首に立ち止まった。

 

「認知症のちち」がついに「施設」へ入ることになった。「ちち」の介護をする「母の声」も、「出なく」なった。このうたを含む「ある晴れた日に」一連には、そういうなかで、心身ともに弱っていくわたしの姿がうつっている。出口の見えない、そして「出口」をおもうことさえ憚られるような、そんな孤独がひとり娘のわたしにはある。

 

夜ねむっていると、そのからだのうえに猫がやってきて、いっしょにねむる形となる。「ひとつながりの闇となりたる」には、作者らしい肉体感覚とイメージの世界がある。「ひとつながり」であることにすこしく安堵をおぼえる。わずかばかりの救いである。

 

結句「闇となりたる」にひきよせられる。一首のなかでは、あるいは暗い部屋、しんとした夜にあって奇妙な一体感をおもわせるこの「闇」。それだけでも、じゅうぶん魅力的である。

 

しかし一連一冊のなかで読むと、やはり「ちちはは」に対してよいひとでばかりもいられない、おのれを保ちつつ、「ちちはは」に対していかないといけない、わたしには「娘」たちもいる、そういうなかで、わたしの「闇」が、この「猫」にも及んでのみこんでしまうような、それほどに疲れきったわたしの姿がおもわれてくる。

 

ひとりといっぴきが、引き合うようにして闇にのまれていく。そこに残る、互いに「引き合う」おのずからなるちからのことを、ここでは愛と、呼んでいいのかもしれない。

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