死神は手のひらに赤き球置きて人間と人間のあひを走れり

葛原妙子『原牛』白玉書房,1959

 

この歌を初めて目にしたとき、「赤き球」は、まだにんげんになりきらない胎児のようだ、と思った。

胎児は文字通り「赤ん坊」とも言うし、「人間と人間のあひを」駆け巡ってゆく細胞の様子などを、「死神」が面白がっているのだと。それはきっと、

奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり

の、「累々と子を」の言い回しを思い出すからで、わたしは最近の、子を持つ、持たない、持てない、堕とす、殺す、棄てる、といったニュースを目にするたびに、この二つの歌を思い出してしまう。

 

「累々」と言われて真っ先に思い浮かぶのは「死屍累々」だ。わざわざその「累々と」という言葉を選び取ることによって、「われのみが」と言いながらも、これまで「われのみが」という言葉を持てなかったものたちの声は連なり合って蘇生する。そこにはたくさんの「われのみ」たちの声がこだまする、それもただの声でもなく、そこはかとない怒りの声が。

生と死が、言葉のうえでも、歌の内容においても癒着して、それなのに、一義的ではない美しさがあって、ほんとうにぞっとさせられる歌だ。

 

米連邦最高裁 “中絶は女性の権利”だとした49年前の判断覆す | NHK 

 

大国で中絶が「咎められるもの」になって(つねづね思うのですが、産んだ子を遺棄せざるを得ないような痛ましい事件の場合、どうして産んだ・孕んだ側のみが罪に問われ、産ませた・孕ませた側はたいてい、うまく逃げ延びることが許されるのだろう)、わたしたちの住むこの国では、いまだに緊急避妊薬へのアクセスは気が遠くなるほど悪い。「女性に性知識がなく、乱用の危険があるから」と、医師会の偉いひとは宣う。生殖の性能を向上させる(男性のための)薬は、ものすごい速さで承認されたのに、という言説は、比較の例としてよく挙げられている。

 

つい最近、「女性として生きることに対する、その生きづらさを詠う」ことに対しての、そのテーマ選択の安易さを咎めるような発言を、歌の世界で目にした。

わたしたちの生きる世界で、「無かったこと」にされてきたものを思う。そして考える。そのための権利は本来、当たり前にあるべきものであって、誰かに保障されるものですらない。

考えつづけること。そして堂々と、選び続けること。たくさんのわたしたち、言葉を磨いて、研いで、研いで、凄まじいものを創りだしてゆきましょう。恐れを知らずに。どうかそれ以上傷つかずに。

 

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