小山純子『河のそびら』(角川文化振興財団、2022年)
秋になると咲く花が、独特の甘い香りをはなつのが金木犀。だいだい色のこまかな花がわあっと咲いて、目にもさやかに秋のおとずれを感じさせる。
その金木犀が、「どこからか」であるから、眼前にあるのではなく、香りだけが風にのってかただよいほのかに感じられる。あ、金木犀だ、と鼻腔くすぐられるここちするのである。
金木犀が鼻腔をくすぐる、というのは、金木犀が香りをはなち、それをわたしの鼻腔にまでおよばしめて刺激する、ということ。いわば擬人法である。ここのところ省略が効いていて大胆ながら、そのほのかなる香りをとらえて、さらに「なにか小声にもの言ふごとし」とかさねたところに、うたのたのしみがある。
小声に話すのをとおく聞くときの、聞こえるけれどなにを言っているかわからない感じ。あるいは耳元でささやかれるときの、声というよりも息だけがあたるような感触。耳にこそばゆいその体感と、この鼻にきて「たぶん金木犀だろうなあ」とおもう花の香に「くすぐ」られるような体感とが、かさねられている。
歌集では、ひとつまえのうたに「疫禍」ということばがあって、だからこのうたを、マスクして過ごすようになったこの二、三年のなかに置いて読むこともできる。「くすぐる」「小声」のようにしてひそひそと過ごしたこのところの気配を含みもちながら、わたしにむかって「くすぐる」「もの言ふ」秋、金木犀に、こころ開かれるような一首でもある。