萩野なつみ『遠葬』思潮社,2016
現代詩も短歌もつくる書き手、というのは少なからず存在する。わたしもじつは現代詩を書くのですが、「詩型の融合」というのは、決して果たされ得ないものだからこそ、それぞれのジャンルで言葉を紡ぎたくなる、紡ぎつづけるのだと、個人的にはそう思っています。
さて、今日取り上げるものは、歌として収められたものではなく、詩集『遠葬』の巻頭に据えられた、二行分かち書きのエピグラフです。
この構成は、言うまでもなく三好達治の『測量船』のオマージュでしょう。今回はこちらを、短歌として読んでみようと思います。
「眠るだけ眠りなさいな」は、「眠ることができるだけ」の「ことが」、現代語ふうに言うと「眠れるだけ」の「れ」が省略されて、「眠ることが可能な限り眠りなさい」の意味、でしょうか。
不思議なのは、呼びかけのかたち、「眠りなさいな」の「な」です。例えば他に、字数を変えずに「お眠りなさい」と書くことができますが、「眠りなさいな」のほうが、より諫めるようなニュアンスを含みます。
ここで可能になるのは、語りかけるものに対して、遠からず近しい距離感にある状態の提示。
「お眠りなさい」だと、諫めるというより、有無を言わさぬ命令の口調になるので、もっと大きな存在の気配を漂わせてしまう。
この語り手は、どこか非人間的な存在を予感させますが、それでもかみさまのように遠い、貴いものではなく、「日時計」を諫めることのできる、にんげんではないものとしての、近しさと尊さを含んだ不思議な存在。
いっぽう「日時計」は陽光によって「歩み」を進めることの叶うものだから、「夕立に歩みを止める」というのはすなわち、雨雲によってその姿を消す、という、情景描写として読むことはできる。
ただし、先に「眠りなさいな」と、呼びかける対象を小さい子供に対するような扱い方をし、さらに「歩みを止める」では二足歩行を彷彿とさせられるフレーズが続くので、いつの間にかこの「日時計」は擬人化された幼い時間のような、読み終えたそのいっとき、奇妙な時空が生れ落ちるような感覚に陥ります。
わたしたちはこの歌を通して、語り手の不思議な近さと貴さ、そしてそのかたりによって擬人化された日時計の、その足取りの消失を目の当たりにします。
語り手のことば選びの自在さ、そのどこか特別な奔放さは、現代詩と短歌の狭間にあるもののようで、それはとても近いのに、なんだかどことなく、遠い。
本書は、このエピグラフののち、「朝に」という詩が配置されています。
ここでも、不思議なことに、語り手は近く遠くを自在に操って、わたしたちの記憶の陰翳を際立たせるのです。
朝に
百葉箱の白さを
おぼえていますか、あの
伸びきったみどりにかこわれた
少しくさりかけた足と
すずやかな 夏
仄暗い
抜け道を知っていた
岩場で切ったあしうらの
赤はサンダルの模様に
まぎれて消えた
うごけないでいるのです、
手の先に海
明け方にやわらかくしばられて
(音楽)
おぼれることを
わたしは望む
ととのいすぎた呼吸の
あいま あいま
気管をすりぬけるように
蜩が鳴いている
からだの奥で
百葉箱をぬける
風がまなうらをしめらせる
しろく改行されてゆく
朝を 沈めて