鈴木ちはね『予言』書肆侃侃房,2020
2019年に「スイミング・スクール」で第2回笹井宏之賞大賞受賞された、その表題歌です。
まだわたしの幼い頃、脳科学者が「アハ体験」というものを提唱していた時期があって、やたらとテレビで動く間違い探し(?)が放映されていた記憶があります。少しずつ、けれどじつは大胆に変化しているその「何か」に気がつく瞬間が、脳にとってよい刺激を齎すらしい。
この歌は、そんな「アハ体験」的な面白さのある一首だと思っています。
幼い頃、水泳教室に「通わされていた」。通っていたのではなく、おそらくは〈私〉が逆うことのできないポジションにいる大人(たいていは親や親族)に強制されて、しぶしぶ。
そんな中でも、夏の道路のあの煌めきだけは、何となく「明るさ」の記憶として〈私〉に残っている。今、語りかける〈私〉は、過去の〈私〉の見ていた「明るさ」を、懐かしく、さびしく思い起こしている。
一読してすんなり意味の通るような内容ですが、この歌はじつは初句から複雑な操作がされています。
タイトルと、この歌とを交互に見つめてみる。すると、タイトルにはあったナカグロが、歌の中では消えていることに気がつくでしょう。そのとき、この歌に対するわたしたちの読みあげ方は、
スイミング/スクール通わ/されていた/夏の道路の/明るさのこと
という、57577の韻律に正しく則ったものから、
スイミングスクール/通わされていた…
と、初句七音の歌へと様変わりする。
すると、初句五音のときに気にかかる「スイミング・スクール(に)通わされていた」の「(に)」の省略が、「スイミングスクール/通わされていた」と、韻律のおさまりの良さに耳が引っ張られて、省略された助詞そのものが気にならなくなる。
内容を劇的に変化させるわけでもなく、あるとき自然に、一首の音韻が様変わりしてしまうこの操作に気がついたとき、この歌の違った煌めきに気がついたように思えて、
その「明るさ」は、かつての〈私〉が見ていた「夏の道路」のその煌めきを、より心身に迫るものとして思い浮かべることができるようです。