古川登貴男『篠懸の木蔭』(短歌研究社、2015年)
ふりかえってみてはじめて、ああ、あのときにはもう……とおもうことがある。只中にいるときにはわからなかった、変化の兆しや、決定的な瞬間。それが時間を経て、とおくから全体を眺めることができるようになって、ようやくわかってくることがある。
ここでは母の「晩年」。夏衣(夏の衣服)の母のあゆみがふっと脳裡にうかぶ。一緒に歩いたか、背中を見送ったか。なんとなくあのころ、そのあゆみが「衰へて」きたなあと、そのこころもとない姿がおもいだされる。あのころ、もうずいぶん年とってたんだなあと、年齢とはちがうところでおもうのである。
夏という季節には、なにかひとを明け透けにするようなところがある。装いはいきおいシンプルになるし、素肌もあらわになりやすい。あるいは暑さのまえに、ただじっとしているしかない、いのち濃い時間でもある。だからこそ、そこに晩年のかげはいっそう印象深い。あああのころが晩年だったのか、そうだろうな、としみじみおもうのである。
うたは「衰へて/来しあのころが」と切れるが、「来し」はいくらも「衰へて」に吸い寄せられて、「あのころ」がふーっとたちあがるような調べである。この隙間に、「ああ」のこころが漂うよう。