肉眼の雨おそろしく老けてゆくこの肉眼のタイムラプスに

内山晶太「タイムラプス」『外出』七号,2022.05

 

タイムラプス(time-lapse)は、1枚ずつ撮影された写真をつなぎ合わせて、コマ送りの動画にする撮影手法のこと。
通常の早送りとの違いはこの「写真をつなぎ合わせる」というところらしく、より鮮明な映像を残すことができるといいます。

 

「肉眼の雨」は、「肉眼で見る雨」と読みましたが、とすると裸眼、魚眼、あるいはメガネのレンズ越し、カメラのファインダー越し、そのいずれの場合も、わたしたちはわたしたちの「肉眼」を使って「雨」を眺めているはず、とも思う。
けれどもここであらためて「肉眼の」と指示されることによって、肉体をもつ生身の存在感が、そのまなこにふりかかります。

 

それなのに、「雨」が「おそろしく老けてゆく」というのは、いったいどういうことだろう。

ここで景が一気に加速し、ついさっきなまの肉体を得たはずの「雨」を見るまなこは、少しずつわたしたちの知るにんげんの様相から遠ざかる。まるでその様子そのものが、タイムラプスで撮影された動く画を見ているよう。

 

さらに下の句を読み進めると、再び「肉眼」が強調され、わたしたちのまなうらに残る。おそろしいのはおまえのまなこだ、という気持ちになります。

 

あえて強調する「肉眼」をもつ語り手は、この連作の中で、ほかにもとりどりの五感を提示しています。

 

耳鳴りは剥きつづけても耳鳴りで延びてゆく金属の孤独は

くちびるは煙草の灰を量産しなお燃え残る唯一のもの

 

「耳鳴り」から「金属の孤独」へと至るまでの聴覚、そして「唇」が「燃え残る」までの味覚や触覚、そして今日とりあげた「おそろしく老けてゆく」という「雨」に対する視覚。
これらの、異様な時空のジャンプ感、あるいはワープ感は、まるで「詩的飛躍」という言葉の生ぬるさを飛び越えるような、不思議なしたたかな力学が働いているようです。

 

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