大松達知『ぶどうのことば』(短歌研究社、2017年)
孤独というのは、どういうところにうまれるのか。たとえば今自分がかかえている困難について、誰にも話せない。あるいは話したところでどうなるわけでもないので、話さない。話す相手がいない。そうしてひとりのなかに行く当てのない感情が渦巻き、絶望する。考えても悩んでも出口が見えない。そういうとき、ひとは孤独だとおもう。
このうたを含む一連は、「笑止顔」という題で、教師として「いぢめ」、そしてそれにかかわる生徒、親、学校という場所をめぐって展開する。かかわるものが多く、考えることが多く、どうすべきか悩み、かならずしもこうと思ったようにはできないもどかしさもある。
そういうときに、この「そばにゐてくれる同僚」がどれほどこころづよいか。「甘つちよろい」(甘っちょろい)、安易なことだとことわり、弱さをさらけだしながら、この「それだけで良し」の簡潔にしてきっぱりとした言い切りが、ここでは切実にひびく。
「甘つちよろいこと」が言えないとき、「そばにゐてくれる同僚」がいないとき、ひとは孤独である。この「言ひます」の敬体によって、うたのわたしの孤独はいくぶんひらかれている。それゆえに、おもわず、そう、それで良いんだと、結句まで読んでうなずく。
ふだんはなんともおもわぬ同僚かもしれない。もちろん、手伝ってくれるわけでも、かわりになにかやってくれるわけでもない。それでも、ただ「ゐてくれる」「それだけで良」い、という心の状態なのだ。あやういところに立っている。「甘つちよろい」と言われてもいい、それでも、というぎりぎりのところをうたった一首である。